GENIUS法・デジタル・ユーロが迫る選択─日銀副総裁が説く「通貨の単一性」とお金の未来

GENIUS法・デジタル・ユーロが迫る選択──日銀副総裁が説く「通貨の単一性」とお金の未来

Last Updated on 2026年5月21日 by Co-Founder/ Researcher

財布の中の千円札と、スマホアプリの千円残高。同じ「千円」として疑いなく使えるこの当たり前は、誰がどう支えているのでしょうか。2026年5月16日、日本銀行の氷見野良三副総裁が日本金融学会で行った講演は、ステーブルコインとCBDCが世界中で動き出した今、その見えない仕組みがこれからどう変わるのかを正面から論じたものでした。お金の設計図が静かに書き換わる、その分岐点を読み解きます。


2026年5月16日、日本銀行副総裁の氷見野良三が、日本金融学会2026年度春季大会で「通貨の単一性と中央銀行の役割」と題する講演を行った。氷見野は、2025年7月に米国でGENIUS法が成立し民間によるドル建てステーブルコイン発行が推進される一方、2025年1月の大統領令で連邦当局によるCBDCの開発・発行が禁止されたと指摘した。

欧州では2024年末発効のMiCA法に加え、欧州中央銀行が2025年10月にデジタル・ユーロの発行を2029年開始と明示したと述べた。スウェーデンのリクスバンクが2026年3月に現金保有を促す勧告を公表したことや、スイスが2026年3月に憲法へ現金供給を明記したことにも言及した。氷見野は、決済システムの将来像はCBDCとステーブルコインの二者択一ではないとし、日本銀行が日銀当座預金のトークン化を検証するサンドボックス・プロジェクトを進め、BISとIIFのプロジェクト・アゴラに参加していることを示した。

From: 【講演】氷見野副総裁「通貨の単一性と中央銀行の役割」(日本金融学会):日本銀行 Bank of Japan

【編集部解説】

今回の講演は、日本銀行の氷見野良三副総裁が2026年5月16日、日本金融学会の春季大会で行ったものです。一見すると学術的な金融政策の話に見えますが、このニュースに注目するのは、これが「お金そのものの設計図」がいま書き換えられようとしている、その分岐点を中央銀行の当事者が公の場で語った貴重な記録だからです。

まず押さえておきたいのは、2025年に世界の通貨をめぐって何が起きたか、という事実関係です。アメリカでは2025年7月18日にGENIUS法が成立しました。これは米国初の連邦レベルのステーブルコイン規制法で、発行者に米ドルや短期国債など流動性の高い資産による100%の裏付けと、準備資産構成の月次開示を義務づけています。一方の欧州中央銀行(ECB)は2025年10月29日、デジタル・ユーロ計画を次フェーズへ進める決定を下し、2026年中に規制法が成立することを前提に、早ければ2027年半ばのパイロット、2029年の初回発行を目指すとしました。米国は民間のステーブルコインへ、欧州は公的なCBDCへ——氷見野副総裁が「大きく舵を切った」と表現したのは、この対照的な動きを指しています。

ここで重要なのが、講演の核心概念である「通貨の単一性(singleness of money)」です。聞き慣れない言葉ですが、意味はシンプルです。A銀行の1万円も、B信用金庫の1万円も、PayPayの1万円も、すべて「同じ1万円」として疑いなく通用する——この当たり前の前提こそが単一性です。氷見野副総裁が明快に解き明かしたのは、その「当たり前」が、実は日銀当座預金という共通の決済基盤によって支えられているという構造でした。普段は誰も意識しませんが、銀行振込もスマホ決済も、最後は日銀のネットワークを経由して1対1の交換が保証されている。この見えない土台があるからこそ、私たちは「お金の中身」を調べずに受け取れるのです。

ではステーブルコインで何が変わるのか。ここが本講演のもっとも示唆に富む部分です。ステーブルコインによる支払いは、預金振込と違って日銀の決済機能を経由しません。氷見野副総裁は「Cコイン」「Dコイン」という架空例を使い、発行体が経営悪化やサイバー攻撃に見舞われたとき、コイン同士の交換レートが一時的に1対1で維持されなくなるリスクを指摘しました。さらに「みんなが使うから自分も使う」というネットワーク外部性が逆回転すれば、特定コインの忌避が自己実現的に広がる可能性にも触れています。便利な新技術が、平時には見えない「単一性」という公共財を静かに侵食しうる——この警告は技術礼賛に偏りがちな議論への重要なカウンターバランスです。

同時に副総裁は、ステーブルコインを頭ごなしに否定してはいません。スイス中銀の研究者ベルンハルトとヘーンの「現実の決済手段にも手数料があり、額面どおりには交換できていない」という議論を紹介し、クレジットカードで1,000円払っても店には970〜980円しか入らない例を挙げています。つまり「微小な変動があっても手数料を回避できるほうがありがたい利用者もいる」という現実を認めたうえで、問題は「ステーブルコインが一般決済に広く使われ、普通の人が高い信頼を寄せるようになったとき、求めるべき単一性の水準をどこに置くか」だと論点を整理しました。この公平な目配りが、本講演を単なる新技術警戒論から一段引き上げています。

そして注目すべきは、講演が「ステーブルコインかCBDCか」という二者択一を明確に否定している点です。氷見野副総裁が提示した第三の道が、銀行預金と日銀当座預金の両方を「トークン化」してブロックチェーンに載せる構想です。これが実現すれば、厳密な単一性を保ったまま、プログラム可能性やスマートコントラクト、DVP(証券と資金の同時決済)といった新技術の利点を取り込めます。日銀はこの検証のため内部で「サンドボックス・プロジェクト」を進めており、国際的にはBISと国際金融協会(IIF)が主導する「プロジェクト・アゴラ」に参加しています。アゴラには日本銀行を含む7中央銀行と40社超の民間金融機関が加わり、トークン化技術による国際決済の高度化を実証実験しています。

このニュースが私たちの生活に与える影響は、決して抽象論ではありません。スウェーデンのリクスバンクは2026年3月、決済システムの脆弱性を理由に、成人1人あたり1,000クローナの現金保有を国民に勧告しました。地政学的緊張やサイバー攻撃で「デジタルが止まる」事態への備えです。スロバキア・ハンガリー・スロベニアでは「現金で支払う権利」が憲法に書き込まれ、スイスも2026年3月に中央銀行による現金供給を憲法に明記しました。デジタル化の最先端だった国々が、いま「現金という冗長性」を制度的に守り直している——この逆説は、決済システムの未来が利便性だけでなく強靭性との綱引きで決まることを物語っています。

長期的な視点で見れば、私たちが日々使う「お金」は、これから数年かけて静かに、しかし根本的に作り替えられていきます。重要なのは、その設計が技術者や金融機関だけで決まるものではない、という点です。氷見野副総裁が講演を「国民的な議論が不可欠」という言葉で締めくくったのは象徴的です。決済システムの将来像は、利便性、コスト負担、独占の回避、マネロン対策、金融政策への影響など多くの論点を含み、最終的には社会全体がどんなお金を望むのかという選択に行き着きます。「未来を知りたい、触りたい、関わりたい」という読者にとって、この議論はまさに当事者として関わるべきテーマなのです。今この記事を届けるのは、お金の未来が決まる前に、その分岐点をできるだけ多くの人と共有しておきたいからにほかなりません。

【用語解説】

通貨の単一性(singleness of money)
A銀行の1万円もB信用金庫の1万円も、すべて「同じ1万円」として疑いなく通用する性質を指す。決済手段が多様化しても、最終的に額面どおりに交換されることが保証されている状態をいう。

CBDC(中央銀行デジタル通貨)
中央銀行が発行するデジタル形式の法定通貨。ビットコインなどの暗号資産と異なり、国家の信用に裏付けられた「デジタルの現金」と位置づけられる。デジタル・ユーロやデジタル人民元がこれにあたる。

ステーブルコイン
価値を米ドルなど特定の資産に連動(ペッグ)させ、価格を安定させることを目的とした暗号資産。GENIUS法のもとでは、流動性が高くリスクの低い資産による100%の裏付けが義務づけられている。

ファイナリティ(支払いの最終性)
支払いが完了し、もう取り消されたり覆ったりしないと確定した状態。受け取る側が「これで確実に支払いは済んだ」と安心できることが、決済システムの根幹をなす。

日銀当座預金/日銀ネット
金融機関が日本銀行に開設している預金口座が日銀当座預金。日銀ネットはその振替を処理する日銀運営のオンラインシステムで、銀行間送金の最終決済を担う共通基盤である。

fiat currency(不換通貨)
金などの実物資産との交換を保証されていない、国家や中央銀行の信用のみに基づいて流通する通貨。現在世界で使われている法定通貨の大半がこれにあたる。

シニョリッジ(通貨発行益)
通貨を発行する主体が得る利益。額面と発行コストの差から生じるもので、誰が通貨を発行するかという論点に直結する。

ネットワーク外部性
「みんなが使っているから自分も使う」という形で、利用者が増えるほど価値が高まる性質。決済手段やSNSに典型的に働き、いったん優劣がつくと加速しやすい。

information-insensitive/no question asked
ノーベル賞経済学者ホルムストロームの概念。通貨は「中身を調べなくても(no question asked)」「情報に左右されず(information-insensitive)」受け入れられるべきだという考え方を指す。

トークン化(tokenisation)
預金や中央銀行マネーなどの資産を、ブロックチェーン上で扱えるデジタルな「トークン」に置き換えること。プログラムによる自動処理や即時決済を可能にする。

スマートコントラクト
あらかじめ定めた条件が満たされると、契約や取引が自動的に実行されるプログラム。トークン化された通貨と組み合わせることで、新しい決済の形が実現する。

DVP(証券と資金の同時受け渡し/Delivery Versus Payment)
証券の引き渡しと代金の支払いを同時に行い、片方だけが実行されてしまうリスク(取りはぐれ)を排除する決済方式。

MiCA法
EUが2024年末に発効させた暗号資産の包括規制(Markets in Crypto-Assets Regulation)。ステーブルコインを含む暗号資産の発行・取引ルールを定めている。

GENIUS法
2025年7月18日に米国で成立した、米国初の連邦レベルのステーブルコイン規制法。発行者に米ドルや短期国債による100%の裏付けと月次の準備資産開示を義務づける。

プロジェクト・アゴラ(Project Agorá)
BISと国際金融協会(IIF)が主導し、7つの中央銀行と40社超の民間金融機関が参加する実証実験。トークン化技術を使い、国境をまたぐ大口決済の高度化を目指す。

【参考リンク】

日本銀行 中央銀行デジタル通貨(CBDC)(外部)
日銀のCBDC取り組み方針、パイロット実験、フォーラムなどの最新情報を集約した公式ページ。

国際決済銀行(BIS)Project Agorá(外部)
プロジェクト・アゴラの公式解説ページ。参加中銀やトークン化の狙い、進捗を確認できる。

欧州中央銀行(ECB)デジタル・ユーロ進捗ページ(外部)
ECBによるデジタル・ユーロ計画の公式進捗報告。2029年の発行目標などを確認できる。

Sveriges Riksbank 国民の決済準備に関する勧告(外部)
成人1人あたり1,000クローナの現金保有などを国民に勧告したリクスバンク公式ページ。

The White House GENIUS法ファクトシート(外部)
米国ホワイトハウスによるGENIUS法成立の公式ファクトシート。法律の骨子が示されている。

Institute of International Finance(IIF)(外部)
プロジェクト・アゴラで民間金融機関の取りまとめ役を担う国際金融協会の公式サイト。

【参考動画】

【参考記事】

Fact Sheet: President Donald J. Trump Signs GENIUS Act into Law(The White House)(外部)
2025年7月18日のGENIUS法成立を伝える米国政府の公式発表。100%準備裏付けと月次開示を義務づける。

Preparation phase of a digital euro – Closing report(European Central Bank)(外部)
ECB公式の閉幕報告書。10月29日の次フェーズ移行決定とパイロット時期、2029年発行目標を明記。

Households should have multiple payment methods(Sveriges Riksbank)(外部)
成人1人約1,000クローナの現金保有を推奨するリクスバンクの政策勧告。算出根拠も示されている。

Project Agorá: central banks and banking sector embark on major project(BIS)(外部)
BISによるプロジェクト・アゴラ発足の公式リリース。7中央銀行が参加する統合台帳構想を解説。

ECB enters new phase for digital euro, with issuance set for 2029(Central Banking)(外部)
ECBがデジタル・ユーロを次フェーズへ進める決定を公表したことを報じた記事。

BIS Project Agorá moves from blueprint to reality(Payments Industry Intelligence)(外部)
アゴラが実地テスト段階に入ったことを伝える記事。アトミック決済の可能性に触れる。

【編集部後記】

財布を開くとき、その1万円がどこの銀行のお金かを気にしたことはあるでしょうか。私たちもありませんでした。氷見野副総裁の講演が気づかせてくれたのは、その「気にしなくていい」状態こそが、見えない仕組みに支えられた贈り物だということです。

スマホ決済が当たり前になった今、あなたの財布の中身はどう変わりましたか。そして、もし「現金で払う権利」が議論になったら、あなたはどんな未来のお金を望みますか。お金の設計図が書き換わるこの時代、その答えを一緒に探していけたら嬉しいです。

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※本記事は情報提供を目的としており、投資助言ではありません。
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ByTaTsu@innovaTopia

『デジタルの窓口』代表。名前の通り、テクノロジーに関するあらゆる相談の”最初の窓口”になることが私の役割です。未来技術がもたらす「期待」と、情報セキュリティという「不安」の両方に寄り添い、誰もが安心して新しい一歩を踏み出せるような道しるべを発信します。 ブロックチェーンやスペーステクノロジーといったワクワクする未来の話から、サイバー攻撃から身を守る実践的な知識まで、幅広くカバー。ハイブリッド異業種交流会『クロストーク』のファウンダーとしての顔も持つ。未来を語り合う場を創っていきたいです。

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