Last Updated on 2026年5月14日 by Co-Founder/ Researcher
Ethereum Foundationが、Ledger発の「クリア署名(Clear Signing)」標準ERC-7730の実装ガイドを公開した。ethereum.orgは2026年5月11日、ヘスター・ブリュイクマンによるチュートリアル記事「Add clear signing to your protocol with ERC-7730」を公開。ERC-7730は、スマートコントラクトの関数呼び出しの意味を記述する標準化されたJSON形式を定義する仕様である。
ディスクリプタと呼ばれるJSONファイルは、context、metadata、displayの3セクションで構成され、コントラクト本体とは別に存在するため、既存プロトコルへ再デプロイなしでクリア署名対応を追加できる。検証用CLIにはPython 3.12以上が必要で、コントラクトはSourcifyでの検証が前提となる。ディスクリプタはEthereum Foundationが管理するERC-7730レジストリにプルリクエスト経由で提出する。マージ後は監査人がERC-8176に基づくアテステーションを公開できる。記事ではUniswap V3 RouterのswapExactTokensForTokens関数を例に、メインネット(chainId 1)とPolygon(chainId 137)への適用が示されている。
From: Add clear signing to your protocol with ERC-7730 | ethereum.org
【編集部解説】
ERC-7730について「単なる開発者向けチュートリアル」と捉えると、この発表の射程を読み違えてしまいます。今回ethereum.orgが公開したのは、Ethereum Foundationが進める「Trillion Dollar Security(1兆ドルセキュリティ)」イニシアチブの中核を担うClear Signing標準の、実装ガイドそのものなのです。
そもそも「ブラインド署名」とは、ウォレットが取引内容を人間に理解可能な形で表示できないまま、ユーザーに承認を求める状態を指します。ハードウェアウォレットの画面に並ぶ16進数の文字列を「読まずに承認」した瞬間、自分の資産がどこへ動くのかを把握しないまま署名している——これが、長年Ethereumのセキュリティを蝕んできた主要な弱点の一つとして指摘されてきました。
数字で見ると深刻さがわかります。Chainalysisのブログレポートによれば、2025年1月から12月初旬の期間で、暗号資産盗難総額は34億ドルを超えたとされ、そのうち約20.2億ドルが北朝鮮系グループに帰属するとされています。2025年2月のBybit事件では約401,347 ETHが流出しましたが、Verichainsの予備調査報告によれば、これはスマートコントラクトのバグではなく、複数の署名者を含むマルチシグ取引によって悪性コントラクトへのアップグレードが承認されたケースだと報告されています。つまり「正規の署名者が、悪意ある取引を内容を理解せずに承認させられた」構図そのものであり、まさにクリア署名が解決を目指す問題領域に直撃する事例です。
ここでERC-7730の設計思想が活きてきます。コントラクトの関数呼び出しの「意味」を記述したJSONファイル(ディスクリプタ)をオープンレジストリに登録し、対応ウォレットがそれを読み込んで「1,000 USDCを最低0.42 WETHにスワップ」のような自然文で表示する。重要なのは、この仕組みがコントラクト本体を一切変更せずに導入できる点です。既存の数百万件のデプロイ済みコントラクトに、後付けでクリア署名対応を加えられるのです。
技術的な経緯にも触れておきましょう。Clear Signingはもともとハードウェアウォレット大手のLedgerが初期に主導した取り組みで、2024年2月にERC-7730として正式に提案され、2026年に入ってからEthereum Foundationへガバナンスが移管されました。今年に入りERC-7730 V2がリリースされ(schema v2はチュートリアル内でも採用)、クロスチェーン用途やソフトウェアウォレット、機密トークン基盤への対応が拡張されています。
特にinnovaTopiaの読者に注目していただきたいのは、関連仕様であるERC-8176の存在です。これはディスクリプタの正確性を第三者の監査人が暗号学的に証明する「アテステーション」の枠組みで、複数の独立した監査人が同じディスクリプタに署名するほど、そのディスクリプタの信頼度が積み上がる設計になっています。中央集権的な「お墨付き」ではなく、分散型の信頼ネットワークで安全性を担保する——Web3らしい構造です。
さらに見逃せないのが、原文中の「人間にもAIエージェントにも読みやすい」という一文です。これは何気ないフレーズではありません。AIエージェントが自律的にトランザクションを実行する時代を見据え、機械可読かつ意味論的に正確なトランザクション記述を、標準仕様レベルで担保しようとしているのです。エージェント経済の安全な基盤層を、今のうちに敷いておく動き——そう読むこともできます。
一方で、潜在的なリスクや限界も冷静に見ておきたいところです。レジストリへの収録は監査や推奨を意味するわけではなく、悪意あるディスクリプタが紛れ込めば「もっともらしい嘘」が表示されかねません。また、ディスクリプタの作成・維持はプロトコル開発者の自発的努力に依存するため、地味で報酬の少ないこの作業をどう普及させていくかが、エコシステム全体の課題になります。「クリア署名対応=安全」という誤解が広まれば、かえって油断を招く危険性もあります。
規制との関係でも、この標準は意義深いものです。MiCA(EU暗号資産市場規制)は2024年6月にART/EMT規定、同年12月にCASP規定が適用開始されており、世界各国でウォレットの開示義務や取引透明性が議論される中、機械可読で監査可能な取引意図の標準フォーマットが存在することは、規制当局との対話の足場になります。「ユーザーが何を承認したのか」を事後的に検証可能にする仕組みは、コンプライアンス側からも歓迎される設計でしょう。
長期的に見れば、Clear Signingは「Ethereumを機関投資家や一般層に開く」ための前提条件となります。1兆ドル規模のオンチェーン価値を扱う時代に、ユーザーが内容を理解しないまま署名する状況は、もはや許容できません。ETF経由でEthereumに触れる新規ユーザー、AIエージェント経由で取引を行う未来のユーザー——彼らにとって「見たままに署名する」体験は、デフォルトの権利として整備されるべきものです。
私たちが今この記事を取り上げる理由は、ここにあります。ERC-7730は派手なトークンローンチでもAIモデルでもありませんが、Ethereumエコシステムが「信頼できるインフラ」へと進化するための、静かな転換点になり得るのです。
【用語解説】
ERC-7730
スマートコントラクトの関数呼び出しの意味を、人間に読みやすい形で記述するためのJSONフォーマットを定義したEthereum標準仕様。Laurent Castillo氏(Ledger)によって2024年2月に提案され、2026年にEthereum Foundationへガバナンスが移管された。
ERC-8176
ERC-7730で作成されたディスクリプタの正確性を、第三者の監査人が暗号学的に証明(アテステーション)するための仕様。複数の独立した監査人が同じディスクリプタに署名することで、ウォレット側が独自の信頼ポリシーを適用できるようになる。
クリア署名(Clear Signing)
「What You See Is What You Sign(見たままに署名する)」という設計思想。ユーザーがウォレットで承認する取引の意図と内容を、人間が読める形で正確に表示する仕組みを指す。
ブラインド署名(Blind Signing)
ウォレットが取引内容を解釈・表示できないまま、ユーザーに承認を求める状態。16進数のcalldataや関数セレクタだけが表示され、ユーザーは中身を理解しないまま署名することになる。フィッシング攻撃やウォレット侵害による損失の主因のひとつとされている。
ディスクリプタ(Descriptor)
ERC-7730において、コントラクトの関数呼び出しを人間可読な形で記述したJSONファイルの呼称。context、metadata、displayの3セクションで構成される。
ABI(Application Binary Interface)
スマートコントラクトの関数や引数の型情報を定義したインターフェース。外部からコントラクトを呼び出す際の「契約書」のような役割を果たす。
calldata
EVM(Ethereum Virtual Machine)上でトランザクションが呼び出される際に渡される、エンコードされた入力データ。通常は16進数で表現される。
chainId
EVM互換ブロックチェーンを一意に識別するための番号。Ethereumメインネットは1、Polygonは137など、チェーンごとに固有の値が割り当てられている。
Sourcifyでの検証
スマートコントラクトのバイトコードがソースコードと一致することを公的に証明するプロセス。ERC-7730レジストリは、ディスクリプタ受理の前提として、対象コントラクトのSourcify検証を必須としている。
Trillion Dollar Security イニシアチブ
Ethereumのインフラを、1兆ドル規模のオンチェーン価値を安全に扱えるレベルまで強化することを目指す、Ethereum Foundation主導の包括的セキュリティプロジェクト。Clear Signingはその中核施策の一つに位置づけられる。
MiCA(Markets in Crypto-Assets Regulation)
EUによる暗号資産市場規制。資産参照型トークン(ART)/電子マネートークン(EMT)規定は2024年6月30日、暗号資産サービス提供者(CASP)規定は同年12月30日から適用が開始されている。発行体・サービス提供者・ウォレット事業者に対する透明性義務やライセンス要件を定める。
【参考リンク】
ethereum.org(イーサリアム公式サイト)(外部)
Ethereumに関する学習・開発・利用に関する公式情報を提供するハブサイト。Ethereum Foundationが運営する。
ERC-7730 Specification(EIP-7730公式仕様書)(外部)
ERC-7730の正式な仕様文書。技術的な詳細やフィールド定義が網羅されている。
clearsigning.org(クリア署名ポータル)(外部)
クリア署名のツール、エコシステム状況、ガバナンスに関する情報を集約する公式ポータル。
ERC-7730 Registry(公式レジストリ)(外部)
Ethereum Foundationが中立的な管理者としてホストするERC-7730ディスクリプタの公開リポジトリ。
Sourcify(外部)
スマートコントラクトのソースコード検証を行う分散型公共サービス。ERC-7730レジストリ受理の前提条件として利用される。
Trillion Dollar Security(外部)
Ethereumを1兆ドル規模の安全なインフラへ進化させるためのEthereum Foundation主導イニシアチブ。
Ledger Developer Portal(Clear Signingドキュメント)(外部)
Ledgerが提供するClear Signingに関する開発者向け公式ドキュメント。ERC-7730の実装ガイドを含む。
Uniswap(外部)
Ethereum上で稼働する分散型取引所プロトコル。ERC-7730ディスクリプタの記述例として引用されている。
Polygon(外部)
Ethereumのスケーリングソリューションを提供するレイヤー2/サイドチェーンネットワーク。
Chainalysis(外部)
ブロックチェーン分析を行う米国の主要企業。年次の暗号資産犯罪レポートで業界の標準的指標を提供。
【参考記事】
Ethereum Foundation Launches Clear Signing Standard(外部)
The Defiantによる報道。ERC-7730、レジストリ、ERC-8176の3要素からなるClear Signing標準の正式発表と、Ledgerから移管された経緯、2026年4月のV2リリースを解説している。
Ethereum’s Clear Signing standard tackles blind transactions with ERC-7730(外部)
crypto.newsによる解説記事。CoW DAOドメイン乗っ取りやBinanceの2,290万件フィッシング遮断事例を挙げ、UX透明性の重要性を整理している。
2025 Crypto Theft Reaches $3.4 Billion(Chainalysis)(外部)
Chainalysis公式の2026年版年次レポート。2025年の暗号資産盗難総額34億ドル、北朝鮮系グループによる20.2億ドル(前年比51%増)などの数値を提示。
Crypto Crime Report: 2025 Statistics & Trends(CoinLedger)(外部)
2025年のBybit事件で401,347 ETH(約15億ドル相当)が盗まれた事実を明記した分析レポート。本記事のETH流出量の根拠として参照した。
Crypto Security Statistics 2026: Fraud Data(CoinLaw)(外部)
Bybit事件が「直接的なネットワーク侵害ではなく、署名インフラの侵害」によるものと明記。本記事の分析根拠として参照した。
Crypto Hack Losses in First Half of 2025 Exceed 2024 Total(Infosecurity Magazine)(外部)
CertiKのデータに基づく報道。2025年上半期だけで24.7億ドルが盗難・スキャム・エクスプロイトで失われ、ウォレット侵害が17億ドル/34件で最大の攻撃ベクトルであったことを報告。
Clear Signing Overview(Ledger Developer Portal)(外部)
Clear SigningがERC-7730というオープンソース・パーミッションレスなEthereum標準の上に構築されていることを示すLedger公式の技術解説。
Bybit Incident Investigation Report(Verichains 予備調査報告書)(外部)
2025年2月のBybit事件に関するVerichainsによる予備調査報告書。401,347 ETHの流出が、複数署名者を含むマルチシグ取引による悪性コントラクトへのアップグレード承認に起因することを記載している。
【編集部後記】
普段、何かを「承認」するとき——アプリのインストールでも、契約書のサインでも——私たちは無意識に「中身を理解した」前提で行動しています。けれどブロックチェーンの世界では、その当たり前が長らく成立していませんでした。ERC-7730が問いかけているのは、技術というより信頼の作法そのものかもしれません。
みなさんがウォレットで何かを承認する場面で、画面に表示される情報を「ちゃんと読めているか」、少し意識してみていただけたら嬉しいです。読めない署名は、署名ではなく賭けなのですから。
——————–
※本記事は情報提供を目的としており、投資助言ではありません。
詳細は当サイトの免責事項をご確認ください。
——————–

